活動報告
一般質問(詳細2)
2点目の質問は、旧門真一中跡地に予定されている交流広場についてです(この場所は明治24年から121年間続いた、門真の文教地区であり、それを称える記念碑を建立して欲しいとの主旨で質問いたしました、原文ママで記載)。
【問】旧門真市立第一中学校跡地に予定されている交流広場についてお聞きいたします。
交流広場は令和4年度以降において事業者が選定され、その後設計と整備工事を行い、生涯学習複合施設と民間事業者が開発する高層共同住宅・商業・サービスゾーンと共にまちびらきを予定しており、近隣の公園や商店街などと相乗効果を生み、本市の「新たな顔」となる場所と言っても過言ではないと思います。
さて、質問の前にまず、この場所についての沿革を述べさせていただきます。
明治21年に今の御堂町の願得寺内で開校した茨田高等小学校は、その3年後の明治24年、この旧門真市立第一中学校跡地に新築され移転してきました。その19年後の明治43年3月に茨田高等小学校が閉校し、入れ替わる形で、現在の大阪府立寝屋川高等学校の前身となる河北高等女学校が創立され開校し、大正9年に河北高等女学校が現在の寝屋川市に移転するまでの10年間この地を学び舎といたしました。その後は大正15年に現在の四條畷学園の前身となる四條畷高等女学校が創立され開校し、仮校舎として1年間、また昭和3年からは相愛学園が設置する相愛女子専門学校の古川橋分教場として23年間存在いたしました。
そして昭和26年、別の場所で昭和24年に開校していた門真町立中学校がこの場所に移転してきました。その後は昭和31年大門真町が誕生することで門真町立門真中学校に改称、昭和38年4月に第二中学校が開校することで門真町立第一中学校と校名変更、同年8月には門真町が門真市となる市制施行に伴い門真市立第一中学校と校名の変更はいくつかございました。
その後はご存じのように第一中学校と第六中学校が統合され「門真はすはな中学校」となるまで、平成24年に第一中学校はこの場所で61年間、学校自体は63年間の学び舎としての役割を終え閉校を迎えました。
このように、この場所は数えきれないくらいの多くの児童や生徒の学びがあり、同時にその一人一人に多くの思い出を残した場所であります。一般的にではございますが、学校が閉校する場合には、OG・ OBやたずさわった教職員などの間には悲しみが広がり、何らかの足跡を残したいと声が上がります。平成15年に閉校した旧大阪府立門真南高等学校では、当時の正門横に記念碑が建立されております。
この一中跡地は、明治24年から平成24年までの121年もの間、本市の文教地区としての役割を果たしてきた場所であり、今後整備が予定されている交流広場において、記念碑等の設置をお願いしたいと思っておりますが、これまでにそのような要望はあったのか、また本市は設置についてどのようにお考えかお聞かせ下さい。よろしくお願いいたします。
【答】記念碑の設置については令和3年2月1日付けで、旧河北高等女学校、現大阪府立寝屋川高等学校のOG・OB会である北水会より、同校が現在の旧門真市立第一中学校跡地に創立され、寝屋川市に移転するまでの間、門真の地で勉学や情操教育に励んだ経緯があることから、創立された記念すべき地に印を残したく、記念碑を建立して欲しいとの要望書が提出されました。
本市としましても、この跡地整備におけるまちのコンセプトを「学びを通じ新たな出会いが生まれるコミュニティガーデン」としており、新たなまちづくりを進めていく上で、過去に存在した学びの地での功績を称え、後世にも伝えていくことが意義深いものであることから、今後の交流広場整備の際に、記念碑等の設置を検討してまいりたいと考えておりますので、よろしくご理解賜りますようお願い申し上げます。
【要望】交流広場に記念碑等の設置を、是非ともよろしくお願いいたします。一つ要望をさせていただきたいのですが、この跡地がまちびらきを迎えた後には、多くの方にお越しいただき活気あふれる場所になると思います。そこで、この交流広場の名称ですが、ネーミングライツを活用してはどうかと思っております。本市の新たな顔となる広場に名称を付ける事で、市民の方に覚えてもらいやすいと思いますし、ネーミングライツ料が入ることで財政運営へ寄与し、また広場の維持管理費にも充当することも可能と考えますので、ご検討いただきますようお願いいたします。